「障害のある人の親がものを言うということ」
- 熊野 春菜

- 2025年11月11日
- 読了時間: 4分
更新日:2025年11月26日
今読んでいる本の話を少ししてみたいと思います。 今読んでいるのは児玉真美さんという方が書かれた
「障害のある人の親がものを言うことー医療と福祉・コロナ禍・親亡き後ー」
という本です。
1人の女性が、障害のある子を産み育てる中での
「他者(特に支援者)に気持ちや考えを伝えること」に焦点を当てた本です。
半分までしか読んでないのですが、いくつか心に残ったエピソードがあります。
「語るには痛みが伴う」ということ、
「母親たちは誰に何を許してもらうのか」ということ、
そして「母親が強くなること」です。
●「語るには痛みを伴う」について
「語る」という行為はいつだって勇気がいるものです。
特に自身の痛みや弱さについて語ることは、ただでさえ屈辱的で、
隠しておきたいことかもしれません。
そして、理解してもらえなかったらどうしようという不安だって付きまといます。
それを生き残るために歯を食いしばって支援者に伝えているのです。
私たち支援職は、その痛みを、
常にこころの片隅に置いておかなくてはならないと思うのです。
障害があるからといって、障害のある人の親だからといって、
「弱者」なわけではないのです。
どんな人も弱者になりたくてなった人などいません。
特に、障害を持つ人の親である人たちは、多くの方がこれまで自立した一人の社会人として生きてきた方々です。
そもそも、誰であろうと配慮を要するからといって、
劣った人、無知蒙昧な人のように扱われていいはずはないのです。
この当たり前のことを、
私たち支援者はどれほど真摯に受け止めてきただろうかと思うのです。
●「母親たちは誰に何を許してもらうのか」という問いについて
障害を持つ人の保護者の方はみなさん頻繁にごめんなさいと謝られます。
あなたのせいでも、誰のせいでもないのに…。
本の中で「社会のみんなで育てていくべき」と
お子さんの主治医が筆者に伝えていたことに大きく頷きました。
障害を持つ子を保護者が殺めてしまう事件を思うとき、いつも私は考えます。
障害があるからといって、その人の生きる権利を奪うべきではない。
でも、保護者だけが責められるべきでもない。
殺さざるを得なくなるまでに追い詰めた社会のには罪はないのかと思うのです。
保護者の方に謝られるとき、私はいつも途方にくれます。
社会的な支援が次第に乏しくなり、社会の目が厳しくなっていく中で、
支援職として、この現実の中で、いったい何ができるのだろうかと。
●「母親が強くなること」について
私は心理士として、障害を抱えるお子さんを育てるお母さん方や、
障害を抱える方々から話を伺ってきました。
お母さん方が「強くならざるを得なかった」過程をお聞きするたび、
胸がギュッとなって息が一瞬止まってしまいます。
私たち支援職の至らなさ、
悪気があるわけではなくても、思い至らないことで傷つけてきたこと…。
本当はこんなにも強くならなくたってよかったはずなのに。
好きで強くなったわけでもないだろうに。
そんな切なさと、
たくさんの葛藤を抱えて歩み続ける強さへの畏敬の念とが、
静かに胸の中で交錯するのです。
支援者と被支援者には、目に見えない権力構造があります。
支援を与える側、支援を受ける側。
それが、被支援者の口を塞いできました。
保護者の方の不満は、もっともなことで、支援者に伝えるべきだし、
支援者がそれを受け止めることは当然の責務だと心から思います。
けれど現実には、支援者側のリソースや素質も有限であり、
子どもはその中で生きなくてはならない…。
そうなると、保護者側が支援者を育てる意識を持つしかないと思うのです。
でも、それをなぜ保護者が担わざるを得ないのか…とも思い、
いつもどうしたらいいのかわからなくなってしまうのです。
乱筆失礼いたしました。
残り半分を読み終えたら、また改めて感想を整理したいと思います。
もしよければ、そのときもお付き合いいただけますと幸いです。
