「障害のある人の親がものを言うということ」後編 2/4
- 熊野 春菜

- 2025年12月12日
- 読了時間: 3分
「障害のある人の親がものを言うということ」児玉真美【著】の感想文を
お送りしております。
当初は5つの章にまとめてお送りする予定でしたが、
整理するうちに4つにまとまったので、2/4としております。
今日はケアに内在される支配性や円環性について
少しお話ししていきたいと思います。
【ケアの円環性】
著書の中では、保護者の方が
「自分は子どもを支配してしまっているのではないか」と苦悩し、
支配しないあり方を模索する姿が描かれていました。
この子はいつもオレンジジュースだから…オレンジジュースね!!
(…いやでも、今日はオレンジの気分じゃないかも…勝手に押し付けちゃってる?)
身近で日常的な場面が本の中では描かれ、
しかも広島弁で交わされるやり取りが、まるで目に浮かぶようです。
このようにケアの関係には、常に「支配」の影がつきまといます。
ケアを与える側と与えられる側の間には、権力構造だって生じやすい。
誰だって自由に自分で決めたいはずで、
本来はみな平等であるはずです。
しかし、守ろうと思えばこそ、
どうしても不自由を強いることも避けられません。
重度の小麦アレルギーを持つお子さんが、
ケーキを食べたいと言ったとしても、
「食べたいなら食べたら?」とは言えません。
少なくとも、その言動は「ケア」とは呼べないはずです。
私は、守ることと制限(=支配)することは、
同じ現象の表と裏であり、
きれいに切り分けられるものではないと感じています。
どれほど努力しても、
ケアから支配性を完全に排除することはできません。
だからこそ筆者は、支援する側がその支配性を自覚し、
「引き裂かれたままでいること」の重要性を語っていました。
本人の意思を尊重したい思いと、
守り制限したい思いとの間に生じるこの“引き裂かれ感”は、
支援に関わる者として私自身が忘れてはならない視点だと感じました。
また、ケアとは本来、誰かが一方的に与えるものではなく、
円環的に循環していく営みなのかもしれません。
支援職が保護者や当事者を支えるだけでなく、
保護者が当事者をケアしており、
支援職もまた自身の家族やメンターからケアされる。
さらに、保護者や当事者の言葉・経験・生活の知恵に、
支援職が支えられる場面も多くあります。
もちろん、保護者や支援職が当事者から励まされることもあるでしょう。
ケアは、役割や立場を越えて相互に巡っていくものだと改めて思わされます。
そう考えると、その関係性が一方向に固定化されてしまわないよう、
絶えず問い直し、柔らかく揺れ動ける状態でいることが大切なのかもしれません。
この不安定さを許容することこそが、
誰もが一時的に「弱い立場」に身を置ける余白となり、
真の共生を生み出す道なのだと思います。
そしてこの「引き裂かれたままでいること」は、
前編で触れた「支援者を育てる意識を保護者が持つしかないのか?」
という難しい問題に対する、ある一つの答えなのかもしれないと思いました。

