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「障害のある人の親がものを言うということ」後編1/4

更新日:2025年12月12日

後半を読んだ感想を書いていたら、

超大作になってしまったので、4つの章に分けてお送りしたいと思います。

お時間がある方はお付き合いいただけますと幸いです。



【生活のために、人生のためにケアがある】


書籍の中で語られていた「生活の中のケア」という視点がとても印象に残りました。


寝たきりの方の耳には褥瘡ができやすく、

筆者のお子さんは特に右側に多いのだといいます。


褥瘡(じょくそう)とは、圧迫されている場所の血流が悪くなったり滞ることで、皮膚の一部が赤い色味をおびたり、ただれたり、傷ができてしまうことです。一般的に「床ずれ」ともいわれています(日本褥瘡学会より引用)。


であれば、左を向きたくなるようにテレビを配置する――

そのような生活の工夫を、保護者の方たちは自然と身につけておられます。


学校で教えてもらえるような専門知識ではなく、

生活に根ざしたこうした知恵こそが、

本当のケアの根っこなのだと私は感じました。


医療的ケアというものには、専門的で特別な行為というイメージがあります。

確かに専門的な知識や技術は必要です。

しかし、医療的ケアを日常的に必要とする子どもたちにとって、

それは「特別なもの」ではなく、生活に組み込まれた当たり前の営みで、

その人の人生の一部なのです。

 

そう考えると、ケアとは「施される特別な支援」ではなく、

本来は当たり前のものであって、

生活や人生と分かちがたく結びついたものなのだと感じます。

 

また、重い障害のある人が「付き添い」なしで医療を受けることの難しさ、

そしてコロナ禍でその付き添いが制限された実例も紹介されていました。


書籍にあった通り、制度的な理由があったとしても

付き添いを制限したり排除したりすることは、

医療側に十分な知識や体制、ノウハウがない場合、

当事者が適切な医療を受ける権利を侵害することになりかねません。


事情や制約があることは理解しつつ、

それでも人権はなにより優先されるべきものだと改めて思いました。

 

特に重度心身障害のある方は、

痛みをうまく表現できず、つらさのサインとして笑ってしまうこともあります。


そのとき、子どもの日頃の様子を知っている保護者の存在が、

なによりの手がかりになる場面も少なくありません。


支援者には、自分にできないことを「できない」「わからない」と謙虚に表明する姿勢と、それでもわかろうとし続ける姿勢の両方が必要だと感じました。


プライドや役割に固執するのではなく、その人の生活と人生を止めないために。

 


私は、人権とは社会の「最終防衛ライン」のようなものだと捉えています。

守る意思がなければ簡単に後退してしまう脆いものであり、

あらゆる資源や人材を注ぎ込んで守るべき価値があるものです。


社会資源が乏しいからといって命を守ることだけを優先し、

人間らしく生きることができないのであれば、

それは「生かされているだけで、生きているとは感じられない…」、

「死んでしまいたい」と私たちは自然と思わされてしまうでしょう。

 

カウンセリングもまた、その人が「人間らしく生きること」に深く関わる営みです。

自分の気持ちや考えを話し、尊重されることは、

生命維持のためだけなら必要ないのかもしれません。


それでも、私たちが“生きている”と実感するためには

欠かせないものだと考えています。

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